卒業式
教育とは何かを見た鈴野川
たった一人の卒業式。鈴野川小学校で3年ぶりに行われました。花粉症でもないのに、初めから目が赤く染まる。先生の、家族の、地域の人々の思いを感じたからです。
校長先生の式辞がすべて凝縮しています。送る言葉として校歌から平和と文化、そして失敗から学ぶことで前進する、失敗を恐れず前に進むことが大事だといわれました。
平和とは郷土の先人の苦しみがあったからこそ守られていること。だからこそ、命を大事にしなければいけないと。
自分ですいた和紙で作った卒業証書。貧しいがゆえに紙を漉き、その紙で作った紙紬で服を作り、その貧しさを過ごしてきたこと。そうやって培った先人の技が、文化であり、それが地域を支えてきたと述べられた。これは、地域の人々への深い愛情そのものです。
99%の失敗と1%の成功。試行錯誤を繰り返すことから発見がある。失敗を恐れるな。失敗の反省から、もう一つ上の段階にすすむことできるという励まし。
そして最後に「ありがとう」と述べられた。校長先生が教え子にお礼をいって送り出す。その言葉を受け取った子が感じないはずがない。
小さな学校では子どもの教育ができない。不十分であるなどという人々もいます。そういう人々にこの卒業式をぜひ見て欲しかった。これほど愛情の詰め込まれた教育環境があるでしょうか。
教育とは何か。すばらしい実践を見せていただきました。
優しさあふれるわが母校
わが母校の弥富小学校の4人の卒業式も気持ちよいものでした。わが子がいるので、うまくやるか気をとられ、鈴野川のようには目の変化はありませんでした。しかし、同じ学び舎で暮らした友を大切に思う気持ちが込もり、優しさがあふれていました。卒業生一人一人に、在校生が言葉を掛ける。一人一人が大切にされています。
担任の先生より担任らしく涙した女先生。一番後ろに並んでいた、5年生の男の子が、大粒の涙を15滴おとした光が印象的でした。わが母校いつまでもこの優しさを大切にして欲しい。
子を責めまい 我を振り返ろう
そして最後は須佐中学校。12日にありました。対面式卒業式。雰囲気がとてもやわらかい。軽い障害をもつ卒業生を見る先生や親の優しく、そして嬉しそうな表情が、いちばん輝いていました。
卒業生が「仰げば尊し」、在校生が「蛍の光」。歌わない。それを見て、人々は後で子らを責める。親は「なぜ歌わんのか」と。先生は「元気がないでしょう」と。来賓は「これはいかん」と。
大きな声で歌った子もいました。彼はなぜ歌えたのか。他の多くの子がなぜ歌えなかったのだろうか。子らを責める前に、私たちが振り返る必要がありはしないでしょうか。
「仰げば尊し」は子らには、歌えなかったのではないか。意味がわからない。意味がわかればいっそう歌えない。「わが師の恩」などないと子らは暗に否定したのではないでしょうか。
もしこれが「旅立ちの日に」や「旅立ちの歌」「巣立ちの歌」だったらどうだったでしょうか。
子らを責めることなかれ。親が子をしかるのは当然。この場合もそうでしょう。しかし、子らの気持ちを素直に発現させる努力を怠った自らの不足をこそ、責めようではありませんか。
「来年こそ」。卒業した子らに次の卒業式はなく申し訳ないのですが、彼らの無言の抵抗を糧として、新しい学校づくりに親も教師も地域も力をあわせ、来年こそ気持ちを素直に表した卒業式を見ることができるようにしたいものです。それが、今年の卒業生への罪滅ぼしではないでしょうか。
教育改革とは、大人の改革です。